子供神輿の写真
2020年5月18日
三原高校第18回生 佐伯 尚
長男の嫁から、お姉さんからもらった写真を見せてもらった。それは、私が田井子供会長時代に製作した子供神輿の写真で、神出音頭の製作のきっかけにとなったものでした。
写真の持ち主は、子供神輿を製作した時の6年生の女の子でした。
この写真の中に私の姿もあり、懐かしく眺めました。
製作した神殿子供神輿
田井の祭りの太鼓番で、田井地区の蘇民神社に立ち寄った時の写真
写真の日付から、撮影日は1990年10月10日
田井公会堂で組み立てられた子供神輿と法被を着た子供会の子供たち
真ん中のズボンをはいた男性は私です
1990年10月10日
田井地区の神出神社の太鼓番で、秋の祭りの宵宮で、太鼓の後をついて田井地区内を練り歩くこども神輿
子供会の子供と役員が参加
私も参加しました。(後方の男性)
後ろの山は、神出富士と呼ばれている、神出神社のある雌岡山(めっこうさん)
1990年10月10日
神出音頭の製作
2019年12月26日
三原高校第18回生 佐伯 尚
私が神出小学校のPTA副会長の時(平成3年)、神出小学校創立百周年記念行事の一環として、神出音頭の製作をプロモートし、百周年記念式典で披露した。
歌詞は神出町民から募集し、神出小学校の音楽教師の手島隼人先生に作曲と録音をお願いした。河内音頭の河内屋菊水丸さんが歌っている。
神出音頭は、神出小学校と神出中学校の運動会、神出町の夏祭り等で、歌い、踊り続けられている。
【神出音頭製作のきっかけ】
長男が5年生になった時(1986年)、田井地区と神出町連合子供会の会長となった。
前任の田井子供会の人見会長は、電気工事の仕事をしながら、西区子供会の役員を兼ねており、子供が子供会を卒業してからも長い間会長として活動された方です。
その人見さんから、会長の引継ぎ時、西区の子供会では各地区の子供会が子供神輿をもって、行事に参加しており、在任中に田井地区の子供会でも子供神輿を作りたかったが実現できなかった。ぜひ佐伯さんにお願いしたいと依頼された。
神出連合子供会の東地区子供会 では、手作りの子供神輿を製作しており、役員と一緒に見学した。
役員の一人の大工さんから、こんな神輿なら作れるよと言ってくれた。幸い田井地区の子供会の父兄には3名の大工さんがおり、子供神輿を作ることになった。
早速、田井自治会長の野口貢さんに製作費の補助をお願いした。厳しい自治会会計から2万円を補助していただいた。地区の横山酒店から日本酒の1斗樽と、長田鉄工所さんに台車を作っていただいた。大工の西馬さんを中心に、神殿神輿と樽神輿の組み換えができる子供神輿を製作した。
野口自治会長に子供神輿を紹介すると、法被が必要だろうとのことで、田井地区の財産区から40万円をいただき、子供と大人の法被を購入した。
おかげで、西区の子供祭りに子供神輿を出すことができ、人見会長からの依頼を実現できた。
次に、神出神社の溝端宮司さんに、田井地区の祭り当番で太鼓と一緒に子供神輿の参加をお願いした。今でこそ、女の子も太鼓に乗って太鼓をたたいているが、当時は女の子の参加は認められていなかった。仕方なく、宵宮で田井地区を中心としての太鼓の練り歩きに参加した。太鼓には神出神社祭礼の歌があり、ばちで打つ太鼓の音楽で大変盛り上がるが、子供神輿は、わっしょい、わっしょいの掛け声だけで、盛り上がなかった。
【手島隼人先生との出会い】
このころ、神出小学校のPTA役員をしていた時、神出小学校の音楽教師の手島先生の作詞・作曲された「神出賛歌」と出会った。大変いい曲だった。子供神輿の歌が欲しいと思っていたので、手島先生に子供神輿の歌の作詞・作曲をお願いした。快く引き受けてくて下さった。
【神出音頭の制作へ】
手島先生のご了解をいただき、神出町自治会長の須藤勇さんに、神出音頭の制作のご協力をお願いした。神出音頭を作るのは賛成だが、現在神出町の圃場整備を進めており、これが完成した時、岩岡町と同じように神出音頭を作る予定なので、待ってことになった。
圃場整備は、農民の利害関係が絡み、なかなか完成せず、時間が過ぎていった。
それから3年がたった1989年、神出小学校のPTA副会長として、神出小学校百周年記念行事を行うこととなり、PTA役員と相談して、この記念行事で神出音頭を製作することにした。
この時、神出町自治会長は、田井子供会の子供神輿のご協力いただいた野口貢さん、副会長が神出消防団の副団長の穴田昇進さん、家内の親戚の中井さんであった。3月の神出消防団の恒例の研修旅行に自治会の3名の方が参加された。バス旅行の途中で喫茶店で、神出音頭を作るきっかけと、前自治会長へお願いして圃場整備の完成待ちになっていることをご説明し、ご協力いただけることとなった。
私は、神出小学校白周年事業のPTA責任者になり、神出音頭の制作に取り掛かった。この時、神出町のゴルフ団地の方で、神出音頭を製作した方がおられ、新たに神出音頭を作ることのご了解をいただいた。
歌は、神出町民から募集した歌をもとに手島先生に編集・作成いただき、手島の作詞で、完成した。A面は神出音頭、B面は神出賛歌で、小学校5・6年生が歌う計画にしていた。
費用は、記念式典の運営委員会(小学校PTA、OBのPTA会長、自治会会長など各種団体長で構成)で協議し、神出町の各家庭から千円の寄付をお願いし、作成したテープを配布することにした。
出来上がった神出音頭を運営委員会で、手島先生のピアノと歌で聞いていただいた。好評であったが、自治会長から、岩岡は歌手が歌っており、歌手に歌っていただけないかとの要望があった。
私の中学校の同級生の女性が、大阪の朝潮駅の近くで割烹屋をやっており、開店のお祝いい行った時、ぴんから兄弟が来られていたのを思い出した。同級生にお願いして、割烹屋でぴんから兄弟にお会いした。神出音頭製作の事情を願いし、費用のことでご相談した。
作詞と作曲はすでに完成しているが、お願いする場合は各500万円、プロの歌手に歌っていただく場合、楽団での演奏が必要であり、1億円以上かかり、したがって地域や商店街などの団体からの依頼でないと実現しないとのことで、歌手への依頼はあきらめようと考えた。
幸い、手島先生のご努力で、歌手で河内音頭をうたっている、河内屋菊水丸にお願いできることになった。菊水丸は、アントニオ猪木とイラクを訪問しフセイン大統領の前で河内音頭をうたって、大ブレークする前であり、幸いであった。
A面は、菊水丸が歌う神出音頭、B面は小学生が歌う神出賛歌として、テープが完成した。
踊りは、神出婦人会の民謡部の方々が振り付けをしていただいた。婦人会(現在消滅)では、神出のめっこうさんで自生していたが現在神出かたこ会(老人会)が栽培している、かたこゆりをあしらった浴衣を作った。
踊りとともに、神出音頭を、百周年記念式典で披露した。
【神出町の盆踊りで菊水丸が歌う】
神出音頭は、製作後20年近く、神出小・中学校の運動会、神出町の夏祭りなどで、踊り・歌い続けていたが、菊水丸は神出を訪問したことはなかった。
ラジオでの菊水丸パーソナリティの番組で、菊水丸は、いろいろの地域の民謡を歌っているが、神戸市び西区の神出町だけは訪問したいことがな、一度神出町を訪問したいと話された。
それを聞いたいた、神戸市会議員の坊池正先生が、電話をいれ、神出小学校PTAの副会長をしているとき小学校の百周年事業で神出音頭を製作した。ぜひ、一度神出にお越しくださいとお願いした。
その後、神出の夏祭りを主宰している神出町まちづくり協議会で、菊水丸の件を相談して、消防団副団長でこの会のメンバーの私と同じく友愛会としてさんかされている田中さん、亀田さんらで、河内屋菊水丸さんの神出訪問が実現した。
菊水丸さんが歌っていると大々的に宣伝していなかったので、その時は町民は大変驚くとともに、盆踊りが大変盛り上がったことは言うまでもない。
この時、菊水丸さんから自治会にCDなど50枚の販売依頼があり、私が販売を担当することになった。アドバイスに従って、会場受付で販売していたが、一向に売れず、仕方なく会場を回り、西消防署長、自治会長、PTAの役員、友人などの協力を得て、完売することができた。これまで完売されたことがなく大変感謝された。
その後、神出音頭は、河内屋菊水丸さんのCDに録音・販売され、神出町自治会で300枚のCDを購入した。もちろん私も記念に購入した。
【手島先生への恩返し】
神出音頭の制作で大変お世話になった手島先生とは、百周年事業関係者で毎年実施している百の会を通じてお付き合いさせていただいていた。
私が川重から、神戸市の外郭団体の神戸市産業振興財団に出向して、部長として中小企業を支援敷いていた時、財団の回覧で、神戸市の文化活動の表彰制度があることを知り、手島先生を推薦した。
先生の作曲やコーラスの音楽活動、詩の制作、骨とう品収取などの文化活動実績が道められ、神戸市文化活動功労賞を受賞することができました。
神出音頭でお世話になった手島先生にお礼することができました。
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平成23年11月、神出音頭を作曲いただいた手島隼人先生が神戸市文化活動功労賞を受賞されました。手島先生が作曲した神出音頭は、神出町で歌い・踊り続けられており、佐伯副支団長が発案し、穴田勝進相談役、田中神出町自治協議会、坊池市会議員なども推薦者として加わり、お世話になった手島先生への恩返しができました。木村さんも喜んでいただいていると思っています。
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神戸市文化活動功労賞:手島 隼人(てしま はやと) 芸術・音楽(合唱・作曲)
神戸市の音楽専科教員として勤務する傍ら、オリジナル作品を歌う合唱団「麦の会」の作曲・指揮を39年にわたり行い、7回のリサイタル等で作品を発表するとともに、神戸市母親コーラス交歓会や兵庫県合唱祭などに連続出演している。また、ウィーンのコンツェルトハウス、リトアニア国立ドラマ劇場でも自作品を演奏したほか、多数の校歌・園歌・記念歌・音頭等の作曲やPTAコーラスの指導などの音楽教育活動に尽力してきた。
その他にも、作詞・作曲(組曲、音俳等)、詩曲集の出版、美術活動(古民芸の保存・研究等)、文学活動(個人誌「麦」出版等)など幅広い文化活動を展開するなど、長年にわたり本市の文化芸術の振興に貢献している。
(神戸市消防教会HP 消防団活動 神出支団より転載:
http://www.kobe-syobokyokai.org/dan/kande/index.html)
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神出中学校の50周年記念行事
2019年11月23日
三原高校第18回生 佐伯 尚
神出町では、小学校のPTA会長を経験した人は、中学校のPTA会長は努めないとの不文律があった。
これは、神出消防団活動の中で、元神出消防団長で小学校のPTA会長を長く勤められた木村忠夫氏から聞いたものである。小学校、中学校に飾られている歴代PTA会長の写真を見ると、私の数年前の数名のPTA会長を除いて、この不文律が守られていた。
私の長女が中学校に入学した時、上記の不文律を守るため、小学校でのPTA会長の時に副会長であった、建設省勤務の岩井正さんにお願いすることで、関係者と本人の了解を得ていた。
ところが、PTA総会の直前、岩井さんから断りの連絡があった。お母さんの具合が悪くなり、小学校の教師であった奥さんがお母さんの世話をするため退職されたと伺った。
時間もなかったので、私が中学校のPTA会長になることにした。但し、就任にあたって時期会長候補を指名し、了解を得たのちに、PTA会長に就任した。これは、幼稚園のPTA会長の後任の人選で大変苦労したので、小学校PTA時代に改善した方法である。
中学校での最大の課題が、3年後の平成9年の50周年記念行事であった。神出小学校の百周年は、地域を挙げてお祝いをしたので、中学校も同じように盛大に行いたいと考え、吉田校長先生と相談した。阪神淡路大震災があったことから、できるだけ質素にしたいとのご意見であった。このため役員会を開き、吉田校長先生の希望に沿って対応することになった。
一番の課題は、行事費をどのように調達するかであった。吉田校長先生からは、神戸市から30万円の補助があるので、地域からの寄付は集めないこととし、手作りの記念行事として、学校、生徒、父兄が協力して取り組むこととした。
① PTAで調達できる金は、年1回行っている廃品回収があるが、年2回実施している小学校PTAにお願いして、1回分を譲っていただいて、50周年までの3年間は、中学校が2回廃品回収を行うことにした。
② 運動会や参観日には、バザーを行うことにした。PTA会員からバザー用品を集め、販売した。
PTA会長として一番苦労したのは、式典の記念品のまんじゅう代金対応でした。見積もりを取ってみると50万円以上かかることがわかった。何とかまんじゅうに代わる手作りの品がないか考えた。
神出町は農村地帯であるが、高齢化と後継者不足で稲を作らない休田があり、これをお借りして紅白の餅をお土産にすることを思いついた。
月1回開かれる本部役員会に諮ったところ、吉田校長先生は、良いアイデアだとすぐに賛成してくれたが、役員からはだれが世話をするのかなどの反対意見が強く、話が進まなかった。
幸い、東の藤本さんにお世話していただけることになり、2ケ月強かかって賛成された。
また、次期会長予定の田中副会長さんから、北の共同管理の田んぼが借りられるとの提案があり、具体的にもち米づくりを計画した。
その田んぼは、お茶山の北側の竹やぶの池の下にあり、一つ大きな問題があった。その田んぼには、マムシが出るとのことであった。田植えをしているときに子供がかまれるといけないので、本部役員で田んぼの畔の草刈りをした。確か3~4匹のマムシがおり、草刈りをしてよかったと役員みんなで話し合った。
ところが、父兄からマムシの出る田んぼで子供に田植えなどさせることへの反対意見が出た。藤本さんの田んぼを学習体験の米つくりに中学校に貸していることがわかり、ここで中学生に餅の苗と偽って田植えをさせたらどうかと提案した。藤本さんから中学生をだますのはいけないとのことで、藤本さんの田んぼでもち米を、北の田んぼで稲づくりをしていただくことになり、無事、田植、稲刈りができた。
50周年記念日の前日、石うすで餅をつき紅白の餅をつくことにした。赤の色子を入れて餅をついたが、均一にならずに困った。幸い、電気もちつき機で拡販すると均一で美しい赤色の餅ができ上った。
紅白の餅を入れるケースは、1箱100円する饅頭屋の箱をやめて、スーパーで購入した1ケース1円のプラスティックの容器を使用し、中学生が育てた「神出のもち」の説明書きで包んでお土産にした。大変好評で苦労が報われた。
この餅つきは、神戸新聞社で取材してもらった。記念式典当日の11月2日の神戸新聞にこの記事が出たので、式典でこの新聞のコピーを皆さんに配布した。いいPRとなった。
50周年記念事業を盛り上げるため、記念キャッチフレーズと記念シンボルマークを中学生から募集した。採用されたキャッチフレーズ「はばたこう、明日の夢に向かって!」とシンボルマークの提案者は、記念式典で表彰し、学校行事の案内書、PTA行事の案内書などに記載し、50周年記念運動会行事、音楽会などとして、50周年記念を盛り上げた。
50周年記念式典が終わった翌週、PTA会長を次期予定者の田中さんにお願いして、私は川崎重工の播磨工場から東京本社へ転勤のため東京に向かった。
神出中学校50周年記念式典で配布したテレフォンカード
・神出中学工程での「神出中の人文字」
・記念のキャッチフレーズ「はばたこう 明日の夢にむかって!」
・記念のシンボルマーク(ロゴマーク)
神戸自衛隊統合協力会の研修会に参加して
2019年10月30日 三原高校18回生 佐伯 尚
神戸自衛隊統合協力会の10月23日からの1泊2日の研修会で、横須賀軍港、記念艦三笠、防衛省、靖国神社・遊就館を訪問。
この会は、自衛隊を支援する民間団体の一つで、自衛隊との相互理解と親睦を図り、自衛隊の健全なる発展のため支援することを目的としている。
この会へは2年ほど前に、同じ地域にすむこの会の会長である金井氏からの勧めで、入会したもの。金井氏とは、神出小学校PTAで百周年記念式典を執り行ったPTAの仲間です。
14名の参加者で、新幹線で新横浜まで移動し、そこからは、小型バスで見学した。
横須賀軍港の見学船の発着場にある本屋さんで、NHK講座「西田幾多郎の善の研究」を購入した。
この中で、物事を先入観なしで見ることの大切さが書かれていた。この研修会ではできるだけ先入観を捨てて見学した。おかげで、楽しく、いろいろなことを考えさせられた研修旅行でした。
横須賀軍港めぐり
美人のガイドの説明も大変良かった。
日本は、日清戦争後、米列強の軍事脅威から主権と領土を守るためには軍事力の強化が急務と痛感し、戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻を基幹とする「六六艦隊」を整備した。この中の一隻が英国で建造された三笠です。
記念艦三笠
東条平八郎のバルチック艦隊への出動にあたって
「皇国の興亡この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」
「天気明朗なれど、波高し」
ISOの品質・環境などの基準では、経営者の経営方針が重要とされているが、六六艦隊指令長官として方針を示した。天気については、秋山真之作戦参謀が付け加えた。戦闘での注意を喚起したもの。
いずれも、方針を的確に示したもので、現在でも参考となる言葉と感心した。私のKHIでの検査課長方針「やるべきことは必ずやる。やってはいけないことは絶対しない」
移設・復元した市ヶ谷記念館
私が大学院でドイツ語の講義を受けているとき、衝撃的なニュース速報があった。
それは、三島由紀夫の盾の会が、自衛隊に決起を促したが、失敗して自決した建物。
防衛省市ヶ谷台ツアー
三島由紀夫は、自衛隊の決起の呼びかけに失敗した後、自決したときのドアに残る傷のあと。(テープで指示)
説明者からは、三島由紀夫のことは一言も触れられなかった。
問いかけに初めて答えてくれた。
防衛省市ヶ谷台ツアー
極東国際軍事裁判(東京裁判)の法廷となった大講堂
現在は改造されて、元の姿となっている。正面が天皇陛下が座られる玉座