服部嵐雪の碑文

 

2020614

 

三原高校18回生 佐伯 尚

 

 

 

 淡路に玉ねぎの手伝いに行ったついでに、洲本市の下加茂に住んでいる兄を訪問した。兄から、私の家のルーツにつながる話がでた。

 

 

 私のおじいさんは、本家の武田家からの分家で、その武田家は、京都から南あわじ市賀集にある淳仁天皇陵を守るために京都からやってきた河野(かわの)家の分家にあたる。

 

 そういえば、おじさんの武田正中さんは、淳仁天皇陵の管理(国家公務員と聞いた覚えがある)に行っていたし、今も孫と河野家の当主が、淳仁天皇陵の管理に行っている。

 

 武田家には、柔道場があり、家のタンスにはたくさんの日本刀があるのを覚えている。

 

 

 

 その河野家のもう一つの分家が、服部家である。服部家の話題が出たので、服部嵐雪の碑文の件を話した。

 

兄もその碑文のことは記憶していた。その碑文は、榎列小榎列にある親戚の服部家の横にある小溝の屋敷側に設置されていたもので、「嵐雪」と書かれた長方形のものだった。

 

 

 

 小さい頃によく遊びにいった服部家の記憶を頼って、服部家を訪問した。服部家は私の家の近くの親戚の宝積寺(今は別の坊さんが管理)の寺の周りの迂回する道路の一角にあり、車一台がやっと通れる狭い小道であった。記憶をたどり間違わずに訪問できた。

 

 

 

当主の服部良介さんは、叔父の山田一二が三原町長をしている時に助役を務め、年1度年賀状であいさつをしていたが、2年前に亡くなっている。

 

 屋敷は、建て替えられた大きな屋敷であった。奥さんと娘さん(子がいなかったのでもらい子)にお会いしたが、嵐雪の「梅一輪一輪ごとの暖かさ」の碑文ことはご存じなかった。服部さんがおられればと残念に思った。それでも、家には嵐雪に関する資料がたくさんあったが、その資料は隣の服部家が保管しているのでお話を伺ったらとアドバイスをいただいた。

 

 

 

  隣の服部家を訪問した。そこは、三原高校の教師をされていた服部達明先生の家だった。服部先生にもお伺いした。嵐雪の「梅一輪一輪ほどのあたたかさ」の碑文のことはご存じなかったが、先生から、2冊の本をいただいた。

 「梅いちりん 嵐雪300年忌記念句集」と「南あわじ市の文化財」である。

 

 

 「梅いちりん」は、服部先生が記念句集の編集委員会の代表としてとりまとめられたもので、淡路の4つの碑文をはじめ、東京、徳島の碑文を紹介していた。記憶していたのは、その一葉塚だったのかもしれない。「梅一輪一輪ほどのあたたかさ」の碑文と尋ねたのが悪かったのかもしれない。

 

   一葉塚「一葉知留咄飛登葉散風乃宇辺(ひとはちるとっぴとはちるかぜのうえ)」

 

嵐雪の辞世の句 南あわじ市榎列小榎列 百回忌(文化3年1806年)

 

   「梅一輪いちりむほどの暖かさ」 

 

南あわじ市榎列下幡多 おのころ神社境内 250回忌(昭和311956年)}

 

   「真夜半や振り替りたる天の川」

 

 250回忌 南あわじ市福良 淡路鳴門岬公園 

 

   「黄菊白菊その外の名はなくもがな」 

 

平成81996年 南あわじ市神代 ゆずるはダム公園

 

 

 

また、この本には、たくさんの俳句が収められていた。また淡路島には役30

 

俳句の会があることがわかった。

 

 その中に、三原高校に先生だった服部先生、菊川兼男先生、三原町役場の助役だった服部良介さんの句もあった。

 

 

 

   菊川兼男先生  「三百年語り伝や嵐雪忌」

 

   服部達明先生  「嵐雪忌飛行機雲のどこまでも」

 

   服部良介さん  「嵐雪忌菊の香永久にいや高く」

 

 

 

嵐雪のうまれは、江戸湯島とする説と、淡路の国三原郡小榎並村(現在の三原あわじ市榎列小榎列)とする説があるそうです。元京都帝国大学国文科教授の潁原(えばら)退蔵博士は、実家が淡路、嵐説自身は江戸の生まれであったため両説がつたえられたのではと考察している。

 

「南あわじ市の文化財」は、服部先生が、南あわじ市の文化財編集委員会の代表としてまあとめたもので、懐かしく読んだ。その中には、よく知っている銅鐸や淡路人形浄瑠璃などがあったが、薬師如来などの仏像など知らないものがほとんどで大変参考になった。

 

 

 なお、私の本家の武田正中さんは、大正4年(1915年)淡路島(元南あわじ市市十一ケ所)に生まれ、幼時より武内流柔術の指導を受けた。また柳生新陰流の免許皆伝、大月流合気柔術・日置流弓術の免許皆伝を取得し、満州 新京にて、富木謙治氏と共に、合気柔術・柳生流の広流に努めた。また日本農士学校の学生監、武道教師、日本農士学校の学生監、武道教師、大学合気道師範などで学生の合気道を指導。淡路島に帰郷し、洗心館柳月道場を開設した。

 

 

 

武田正中の経歴:http://www.takahashiseikei.jp/takedashihan.html

 

合気道 備中正中會:http://www.takahashiseikei.jp/masanakakai.htm

 

玄関で「梅いちりむ」の本を手に取っている服部先生

松尾芭蕉の弟子の服部嵐雪翁の肖像画

(雪中庵雀志讃嵐雪翁像乃図の軸の肖像部)

一葉塚「一葉知留咄飛登葉散風乃宇辺」

上:梅一輪いちりむほどの暖かさ

 

下左:黄菊白菊そのほかの名はなくもがな

 

下右:真夜半や振り返りたる天の川

 

 

 

 

 

玉ねぎの取入れの手伝い

 

2020613

 

三原高校18回生 佐伯 尚

 

 

 

今年も恒例になっている故郷の玉ねぎの取入れの手伝いで南あわじ市に帰った。

 

玉ねぎは、梅雨入りした直後の6月の初めに取り入れられるが、今年は梅雨入りが遅れたので、雨のない作業となった。このため、暑い中での取入れとなったが、玉ねぎはよく乾燥することができた。

 

農業の機械化が進んでいるが、玉ねぎの栽培・収穫まで機械が導入され、生産性の向上と省人化が図られている。植付け・取入れの自動化を図るための、2本の谷堀治具(鋤)備えたトラクターによる同一幅の床の成形、玉ねぎの植え付け機、掘り出しと葉っぱの切断など。玉ねぎは、コンテナーに収め、玉ねぎ小屋に保管する。この重いコンテナーを運搬するのが一番の苦労するところである。コンテナーは、パレットに6箱を5段積みで保管する。農民車で、パレットに4段積みと、個別に4段積みしたコンテナーを運び、パレットをフォークリフトにのせ、個別に運んだコンテナーをパレットに5段積み後、玉ねぎ小屋にパレット2段で保管する。さらにコンテナーを持ち上げる高さを小さくするため、トラクターに取り付けたフォークリフトの保持機構を利用し、パレットに4段積みしてから、トラクターにのせることで省力化を図っている。

 

私が子供のころは、まず、手で玉ねぎを抜き、乾燥後、藁で玉ねぎを束ね、釜で葉っぱを切り、農民車やリヤカーで玉ねぎ小屋に運び、夕食後、12時近くまで「なる(木の棒)」に吊り下げた。今は、5時に作業を終了することが可能となり、大変楽な作業となった。

 

ただ、兄夫婦も、高齢化し、JAのアグリにお願いして、玉ねぎのコンテナーへの詰め込みをベトナム人の女性の研修生に手伝ってもらっている。

 

玉ねぎの掘り起こし作業

コンテナーへの玉ねぎの詰め込み

農民車でのコンテナーの運搬

玉ねぎ小屋での保管状況

玉ねぎをつるしての保管方法(本家の武田家の玉ねぎ小屋での保管状況)

 

 

 

 

の子供時代の思い出

   2019年11月13日

   三原高校18回生 佐伯 尚

 

 私は、南あわじ市(旧三原郡三原町市十一ケ所)で、酪農家の4男として生まれた。

 乳牛を6頭ぐらい飼育しており、コメと麦の二毛作で、玉ねぎを栽培していた。また、精米機を設置して、近所のコメの精米をしていた。

 家は、2階建ての屋敷と牛舎、精米所、玉ねぎ小屋からなり、中央に庭があり、大きな柿木が1本植えられていた。 

 小さい時の記憶はあまりないが、この記事を書いていたら、次々と昔のことが思い出されてきた。

思いつくまま、書き出してみることにした。

 小さい頃は、近所の子供と鬼ごっこ、駒回し、かくれんぼなどして遊んでいた。

精米所の下に防空壕があり、かくれんぼの隠れ場所として最適であった。本家の武田家は、隣に位置しており、子供が3人手を広げたほどの大きさで、かくれんぼの鬼の陣地(子供が逃げる間、目をつぶって松に寄りかかっていた)として利用していた。

 余談になるが、川崎重工時代、伊丹空港から種子島へ向かうYS-11は、淡路島の上空を飛行したが、窓からこの松を目印に我が家を確認することができた。これは、私の家の南側に田んぼが広がっており、その向こうに市の弁天さんの森があることも、我が家を見つけやすくしていた。

 武田家の話題が出たので、脱線ついでに、武田家も紹介する。武田家には、柔道場があり、屋敷の中に日本刀がある。のちになって、インターネットで、おじさんの武田正中は、有名な柳生新陰流の師範であることを知った。

 話を戻そう。防空壕の横には、2m✖5ⅿ程度の水槽があり、いつも家の前を流れる小溝からきれいな水が流れこんでおり、蓮の花が咲きフナなどの小魚が泳いでいた。

 この小溝で、毎朝顔を洗っており、収穫した野菜なども洗ったりしていた。また、牛を散歩させるとき、牛がこの水をうまそうに飲んでいた。

 自分では覚えがないが、この小溝に流されて、我が家の庭の入り口にかかっている石の橋を出たところで、隣のおじさんに拾いあげてもらって九死に一生を得たとのこと。母からよく聞かされた。

 恩人のおじさんの家族に、女の子二人のお姉さんがおりよく遊んでもらったが、家族で開拓団の一員として、ブラジルに渡った。その後の消息は聞いていない。 

 遊びに戻ろう。私たち兄弟は、野球をよくした。家の庭、玉ねぎを取り入れた後の田んぼで野球をよくやった。雨の日は、床の間6帖、階段の登り口の3畳、4畳半の2部屋のふすまや障子を外して、テニスのラケットと軟式ボールで野球をした。この楽しい思い出があったので、孫たちには床の間と納戸で、野球やサッカーをすることを許している。おかげで、畳はよく痛み、障子は破れたり、伸びて変形している。

 何時のころかわからないが、巨人軍が洲本の三熊球場でキャンプを張っていた時、兄に連れられて見物に行った。確か、赤バットの川上選手が目当てだった。それ以降、私は巨人ファンである。特に、小学校5年の時巨人に入団した長嶋選手をしり、巨人ファンというより長嶋ファンになった。余談であるが、長嶋が監督を解任されたときは、巨人ファンをやめた。

 保育園(または幼稚園)は、2年間通った。入園写真には、園地?をしていたおじさんの山田一二が写っていた。母によると、幼稚園では喧嘩ので、ライバルの吉見君と噛み合いの喧嘩をして勝ったとのこと。母はあやまりに行ったとのこと。